ハナニアラシノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
――井伏鱒二『厄除け詩集』
たぶん、「さよならだけが人生だ」という言葉は、
寺山修司を経由して知ったのだと思う。そのころは、
「人生ってさよならしなくちゃいけないことがたくさんあるのかな」とか、
そんな、漠然としたせつなさを感じていた。
まだとても若かったし、さよならを知らなかったから。
そして、いろんな出会いや別れというものを経験するたびに、
このフレーズはちかっと光が反射するように心をかすめていった。
別れがつらいときには、少々にくらしい気分でこのフレーズをながめた。
出会いがうれしいときは、祈るような思いでこのフレーズを握りしめた。
あくまで「出会い」や「別れ」というドラマのなかにある言葉として。
そして今日、誰にも出会わないし別れないような
まるっきりありふれた日常のなかで、
ふいにぽっかりと、このフレーズが浮かんできた。
ああ、毎日ってさようならがすべてなんだな、と。
今日会う友達に、二度と会えるかどうかなんてわからない。
ランチを食べに行ったお店に、今度また行くかどうかわからない。
なんとなく「いつでもまた会える」つもりでいるけれど、
何年も会っていない人たちが、どれほど多くいるだろうか?
たった一度言葉を交わしただけの、消息も知れない出会いが、
どんなにたくさんあっただろう。
だから「サヨナラダケガ人生」なのだと、今は思う。
毎日はさようならを言うためだけにあるのかもしれないと。
こう書くと、なんだかさびしいような話に見えるけれども、
どちらかというと、サバサバとした、すっきりした感覚がある。
そして、親子とか、友人とか、恋人とか、共同生活とか、
いろんな関係性のなかで、遠くなったり近くなったり、
浮遊するように動いてきた「わたし」の手のひらのうえに
このフレーズがついてきてることにちょっとした驚きもある。
忘れてしまう言葉がこんなにも多いのに。
サヨナラの言葉には、さよならしなかった。
サヨナラダケガ人生ダカラ?
こういう風に思うのは、やっぱりお坊さんたちと
話す機会が多くなったからなのかな。

